平和

毎年夏になると、反戦平和を唱える論をよく耳にする。
2発の原爆投下記念日と終戦記念日があるので、そういう気分にさせられるのだろう。

戦争によって悲惨な体験をした日本人が、同じ轍を踏まない為に平和を唱えるというのは当然のことである。

しかし、僕には気になることがある。

その「平和」の定義があいまいなことだ。
おそらく、「戦争がないこと」というのがほとんどの人にとっての答えだろう。
でも本当にそうだろうか?

「良い戦争、悪い平和などあったためしがない。」と ベンジャミン・フランクリンは言った。
戦争は絶対悪であり、「良い戦争」などあるはずもない。
では「悪い平和」は?

「平和」というものを「戦争がないこと」と定義した場合、まさしく今の日本は平和だ。
だが、北朝鮮は平和といえるだろうか。

独裁政権により統制され、自由がまったくない状態の平和など、僕には興味がない。

いくら戦争がなくとも、貧困で食べるに事欠くような状況は、平和といえるだろうか。
著しい不平等社会の中におかれても、それは平和といえるだろうか。

少なくとも僕は、そんな状況は許せない。

僕にとっての「平和」とは、人間が自由に幸福に生きること、なのだ。
もしもそれが脅かされるようなことになれば、僕は武力による解決を否定しない。
核の傘に入ることによって平和が保たれるのなら、核を否定しない。
平和を守る為に軍備が必要なら、それは止むを得ないことだ。

平和を唱える者は、国際的現実から目をそらしてはならない。
現実には世界各地で武力衝突は起こっており、残念ながら今のところそれを防ぐ手立てはないのだ。

日本の平和を保つ方法は2つある。

・武力を持たず、徹底的に従順であること。
反撃するから武力衝突が起こるのだ。相手の要求を全て受け入れた場合、戦争になどなるはずがない。

・強力な武力を持つこと。
強力な武力を持つことは、それだけで相手に対する抑止になる。もしも相手が攻撃してきたら、徹底的に反撃して損害を与える。
場合によっては敵の根拠地を攻撃し、殲滅する。

どちらの方法がベストか、言うまでもないだろう。

mugakudouji
政治時事歴史

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です