論理と感情

文理の間に横たわる深い溝は埋めることができる?

文系の人は理系に対して「理屈っぽくて、何を考えているのかワカラナイ」と言い、
理系の人は文系に対して「感情的で、論理的な話ができていない」と言う。

両者の間には深くて広い溝が横たわっているようですが、まるで文理が対決しあっているような構図になってしまったのは、どうしてなんでしょうか?(もしや、この企画がそれを煽ってしまっていたりして…)

そこで、『理系バカと文系バカ』(PHP新書)という著書もある、サイエンスライターの竹内薫さんにお話を聞いてきました。竹内さんはこの本の中で「自分の好きな世界に没頭しすぎて、極端な行動に走りやすい理系バカ」「他人の情報を鵜呑みにして、その場の空気に流されやすい文系バカ」と定義しています。理系バカに関しては、さらにこんな特徴も教えてくれました。

「理系バカには『事実以外認めない』という頑ななところがあり、ひどくなると、小説や映画に対して『事実が描かれていないものを読んでなにになる』とまで言います。そうやってフィクションを認めない人はコミュニケーション力、表現力が低く、論理的でない人のことを見下したりする。でも、たとえ素晴らしい研究成果が出ても、表現力が低ければ世界の人にそれをアピールすることができません。だから、一流のサイエンティストはフィクション作品もよく読んでいて、表現力が高いのです」

そういえば、『生物と無生物のあいだ』の福岡伸一先生(分子生物学)、『国家の品格』の藤原正彦先生(数学)、『バカの壁』の養老孟司先生(解剖学)などなど、文系出身の作家さん顔負けの文章力で知られるサイエンティストがたくさんいますね。

また、竹内さんはフィクションを認めない理系バカを「教養がない」としたうえで、文系バカに対しても「理系的な教養がない」と指摘。

「論理的であることは絶対ではないけれど、伝聞情報を鵜呑みにすることは危険ですし、数学とか物理を『難しそう』『関係ない』と頭から否定してしまうのも問題です。数学のエキスパートである必要はありませんが、せめて理系的な教養を否定せず、ものによっては興味を持ってみるくらいのことも必要では?」

理系と文系では、お互いに「常識」と考えるものが大きく違う。それが文理間の溝を作っているようです。

この企画では「理系の人って変わっているなぁ」と言い続けてきましたが、理系の人たちも私のような文系人間を「ヘン変な人」と思っているはず。私も、知らないことだからといって「ヘンなの!」と否定してしまう“文系バカ”にならないように、気をつけないと!

僕にいわせれば、文系とか理系とかに分けること自体がばかばかしいのだが。

文系バカと理系バカに分けているが、どっちも同じただのバカじゃないか。

僕は大学で文系科目を専攻したが、最終的に論文を書かなきゃならなかった。
「論」を組み立てられなければ、論文は書けないのだよ。
文系だろうと、学問ならば理論がなければ成立しない。

ただ、僕が比較的即物的な理屈の方を大事にするのは、感情的な部分というのは人によって千差万別だし、バックボーンとなっている文化によっても変わってくる。
でも即物的な、具体的には金銭という価値を中心にした理屈は、比較的受け入れられやすいと思う。
カネがなければ生きていけない世の中なら、カネは共通言語たり得る。

でも、そういった場合だって感情的な面を全部排除することは出来ない。

要はバランスなのだ。

論理性を重んじるバルカン人と、感情的な地球人。
その両方の血を引くスポックが出した結論は、どういったものであったか。

ジーン・ロッデンベリーはなんとも面白いテーマを見つけてきたもんだ。

mugakudouji
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